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第84回 42年前の春

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最近は物忘れが激しいと感じる年齢になったが、42年前の春は鮮明に覚えています。昔の事はよく覚えているのはよくある話ですが、ちょっと違う。それは京都から大町市に引っ越した春だから。

3月31日、約束通り建築(不本意な空港の防音工事)の設計事務所の仕事を辞めた。親に「信州と北海道を巡ってくる、1年で戻る」と言い残し…

4月5日、京都駅から「特急しなの」で松本へ(当時は大阪駅から長野駅行の「特急しなの」があったのです)。松本駅で大糸線に乗り換えて穂高町(今の安曇野市)の柏矢町駅で下車、バスに乗って安曇野ユースホステルへ。

そこで見知らぬ旅人から「大きな荷物ですね!何が入っているの?」と聞かれて「長い旅になりそうだから…」と答えた記憶があります。

ここで2泊。周辺を歩いたが当時は田園地帯で感動的な景色も無く活気も仕事もなさそうな町(今の安曇野市とはまるで違う雰囲気)だったので、大糸線に乗り信濃木崎駅で下車して木崎湖ユースホステルへ。

翌日、自転車を借りて走り出すと、残雪の北アルプスがすごい… ここに住めたらいいなと感じた。

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当初の想定ルート(京都・・信州・・北海道・・京都)

大町の市街地を走ると、スーパーカネマンジャスコ(今のイオン系のスーパー。カネマンの意味は知らなかったので、スーパーマンとかエイトマンの「マン」と思っていた)があり、本通りの商店街が賑やかで「さすがは市だな!」と感じました。

ここなら便利で生活できそうだし、仕事があるかもしれないな… と思って迷わず電話ボックス(なぜ迷わず入ったのかは忘れました)に入り、職業別電話帳を繰りながら「建築の設計事務所はあるかな?」と探すと4、5軒はあったと思う。その名前と電話番号と住所を自分のメモ帳に書き写す。

そして本通り沿いの書店(今は無い)に入り、住宅地図で所在地を確認してすぐに電話した。「これから面接をおねがいできますか?」と、今から考えれば、どーしてこんなことができたのか不思議でもある。普通なら職業安定所に行って仕事を探すのが普通なはずだが、そのような事は全く思いつきませんでした。

数日後に面接をして、なんと無事採用決定(すごく幸運なことだが、当時はそうは思わず、仕事が決まれば次はアパート探しだな…)。

駅近くの不動産屋に行き、「一人で暮らすのでアパートを探しているのですが…」「お仕事は? ああ、あそこの設計事務所に就職ですね… それならこれはどうでしょう…」(この町では設計事務所というマイナーな仕事場が知られているのは意外でしたが、話が前に進んでよかった。

今にしてみると小さな町で、みんなが家族か親戚か知り合いの町)。

そんなこんなで、結果ユースホステルで10連泊して仕事と家は見つかり、京都に一旦戻った。

親に「ごめん、大町で仕事見つけちゃった、少なくとも5年は働いてくれと言われている…」(この時、親は複雑な思いだったに違いない、やっと末っ子が独り立ちしたという思いと、3人兄弟の最後の一人が旅立って、京都の家には親二人残された…)。

京都では布団とか生活の荷物を段ボール10箱にまとめて駅に運ぶ。自分はまたも特急しなのと大糸線で大町に到着。数日後、小荷物が信濃大町駅に到着したとのことで、ミニサイクルで5往復して長屋に運ぶ。

そして新生活がスタート。西小の近くの長屋(山一住宅)から仕事場まで自転車で10分。この景色を見ながらの生活で毎日がウキウキでした。

42年経過した今でも、見飽きない景色。その後、色々なことがあったけど42年も住み続けられたと言う事は、なによりも”大町はおもしろい所”を物語っているのではないでしょうか? ではまた!

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42年前と変わらぬ北アルプスのながめ

梅田敏男(大町市定住促進アドバイザー)