
今回は、自分の本業である建築設計の話をしたいと思います。
「えっ、仕事は設計なの?アウトドアガイドかと思っていたよ」と言われることもありますが、実はちゃんと建築の設計もやっています。最近は主に住宅の設計や相談、それに加えてシェアハウスやゲストハウスのリフォームなど、移住の流れに沿った仕事もやっています。
京都にいた頃は、大阪の小さな設計事務所で働いていました。当時は、大阪空港周辺の住宅の防音工事の設計がほとんどで、決まりきった図面を描く毎日。たまに高層マンションの図面を担当することもありましたが、下請け仕事で、自分がやりたい設計とは違うと感じたので2年で退職しました。今思えば、それが大町市へ引っ越すきっかけの大きな要因だったと思います。

天文ドーム付き自宅
大町に来たとき、「こんな田舎で設計事務所なんてあるのかな?」と思っていましたが、電話帳を開いてみると、意外にも複数の設計事務所が載っていました。そのとき、「人が住んでいれば、田舎でも建築の仕事があるのだな」と感じました。

天文ドーム拡大
そして大町の設計事務所に就職が決まったのですが、大阪の時と給料はほぼ同じ。一般的には、都市部から地方へ行くと給料が下がるイメージがありますが、建築設計業界は独立するまでは“修行の身”。都市部でも給料は安いのでした。

N邸新築工事

M邸ログハウス
そして嬉しいことに、田舎だからといって仕事が地味なわけではなかったこと。隣町には白馬村というリゾート地があり、ホテルやペンション、スキー場のレストラン、リフト施設、公衆浴場、公衆トイレ、鷹狩山の展望台など、面白い設計の仕事がたくさんありました。大町に来て、本当にやりたかった設計に関われたのでした。

鷹狩山展望台
8年間、勤めているうちに、地元の建設業者とのつながりも自然とでき、30歳で独立開業。最初はアルバイト感覚で図面を描いていましたが、バブル景気の波にも助けられ、いろいろな建築設計の仕事が入るようになり、収入も人並みになってきました。そして設計競技で選ばれた美麻のセミナーハウスや、郊外のレストラン、ログハウスなどを設計。自宅は天文ドーム付きにするなど、趣味を活かした設計もしています。

美麻セミナーハウス

美麻セミナーハウス模型
バブル期が過ぎ、長野オリンピックが終わると建築不況になり、知り合いの工務店や設計事務所が次々と倒産や廃業しました。うちの事務所も仕事が減った丁度その頃、趣味で楽しんでいた登山やスキー、星空ガイドが副収入となり、2足の草鞋で設計事務所を閉める事なく、続けています。結果的にインドアの設計とアウトドアのガイド仕事で前より充実した生活になったと感じています。

大町市郊外のレストラン
話は変わりますが、今でも覚えている小学校の卒業式前のこと。先生が「自分のなりたい職業を書きなさい」と言いました。友達は「新幹線の運転士」「オリンピック選手」「ウルトラマン」など夢いっぱいのものもいれば、「サラリーマン」「公務員」と現実的な答えを書く子もいました。
そんな中、僕は迷わず「建築家!」と書きました(もっとも、そのとき“建築家”が何をする人か、よく分かっていなかったと思います)。小学生の頃から模型づくりが大好きで、夏休みの工作も夢中になってやっていたので、「大人になったら作る仕事がしたい」と思っていたのです。どうして大工ではなく設計に惹かれたのかは、正直覚えていませんが……。
そんな自分が、今こうして大町で好きな仕事をしている。改めて思うと、本当に幸せなことだなと感じます。
梅田敏男(大町市定住促進アドバイザー)